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カイロプラクティックのレシピ(その10)

カイロプラクティックのレシピ(その10)

「物は生きているか?」という問いがあります。 それは物質と生命の境目、その曖昧な領域を思考する問いでもあります。 「意識」というものは物質だけでは定義しきれません。例えば、麻酔がなぜ効くのかという根本的な理由さえ、現代医学で完全には証明できていないのです。生きている人と亡くなった人の「栄養学的な違い」が明記できれば話は簡単でしたが、生命の本質はそこにはありません。


ここに、一枚の白い布があるとします。 ほとんどの人にとって、それはただの「布」に過ぎません。 しかし、その布に赤い絵の具で丸を描けば、たちまち「国旗」へと姿を変えます。

オリンピックで日本代表が悲願の金メダルを手にし、表彰式でその国旗が掲揚される時。メダリストにとって、その布はもはや単なる布を超えた存在になります。これまでの苦難や葛藤のシンボルとして、人々はその布に歓喜し、涙します。 その瞬間、国旗は単なる物質を超えて輝きを放ち、活き活きと躍動し始めます。この時、この国旗は「生きている」と言えるのではないでしょうか。


あるいは、りんごが木から落ちたとします。そのまま放置されれば、りんごはたちまち腐敗し、死へと向かいます。 しかし、そのりんごを誰かが食した時、胃腸で消化され、その人の身体の一部として再構築されます。この時、りんごは「活かされ」、命そのものへと融合したと言えるはずです。


どちらも、生命体を通して価値が表現されています。 物は「活きる可能性」を秘めており、私たちの関わり方次第で「生かす」ことができるのです。


人が亡くなった後でも、爪が伸びたり、臓器を取り出して移植したりすることができます。では、その爪や臓器は、その瞬間「生きている」のでしょうか。


私たちが向き合っている「人間」という生命体は、それ自体が非常に曖昧な存在です。どこからが生で、どこからが死なのか。それは目には見えません。身体を元素まで分解してみれば、そこにあるのは動的エネルギーの集合体であったりもします。


国旗もりんごも臓器も、その存在の意味が劇的に変わる瞬間があります。 それは、意識やエネルギーの交流が行われた瞬間ではないでしょうか。


私たちが手を通して患者さんの身体に触れた時、手からは実に多くの情報が伝わってきます。そっと手を当て、その感覚を静かに分かち合う。それだけで、人の心は落ち着きを取り戻すものです。

「たなごころ」とは、文字通り「手の心」。 私たち施術者は、何かを治したり、無理に変えたりすることはできません。治すのはあくまでその方自身の身体の仕事であり、その力(インネイト・インテリジェンス)は常に内側で働いています。

私たちは、何らかの重荷を抱えている場所にそっと手を当て、ご本人がご自身の身体に「心を向ける」お手伝いをさせていただいているのです。

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